地元では有名なのでしょうが、その方の存在を知らず、その土地に行ったことで知り、え~そんな方がいらしたのか!とちょっと心が動いた人をプチ紹介。(そんな人も知らんかったのか~と言わず、大目にみてくださいませ)

新発田市 井上久助 (1606-1660)

観光協会のガイドさんに教えていただきました。

新発田藩藩士。幼いころに藩主(溝口秀勝)に仕えていた父を亡くしたが、秀勝は深く悼み、まだ幼かった久助に跡目を継がせ、その郎党すべての面倒をみた。これにより久助はその恩義を忘れなかった、ということが後の事件に繋がっていったと思われます。

井上久助

『塩止め事件(しおどめじけん)』 「万治元年(1658)」勃発。

海が近い新発田藩は会津藩に塩を送り、良質な塩が取れなかった会津藩は、新発田藩にロウソクを送って両藩の商人はお互いを助けあう仲でした。
しかし、ある時から会津藩の商人からロウソクが届かなくなり、そのまま、お互いの商人どうしの「やり取りが無くなりました。そして、商人の間ではなく「会津藩」から直々に書状が届き『塩は戦の備え、新発田藩の行為は会津藩に対する敵対とみなす』と書かれ、新発田藩は蒼白。(この背景には、会津で塩がとれるようになった・・・とかという説もあるらしい)

会津藩は徳川将軍の血筋で23万石の大藩。いっぽう新発田藩は6万石の外様大名。
とてもとても新発田藩が正論を言っても、かなう相手ではありません。
そこに、名乗り出た男が井上久助。当時の藩主は三代溝口宣直。父の代から恩義ある藩主溝口家の為に、新発田藩の為に自分が矢面に立つ、という覚悟を決めたのでしょうか。


「己は欲に目がくらみ、藩主に隠れて、一人私利を貪らんとして、商人をけしかけ、独断で行った。」
「罪なき罪を」自らかぶり、過酷な拷問にも最後まで口を割らなかったそうです。

会津藩士も、その姿に相手藩とはいえ、武士としての威厳を感じたとのことですが、プライドがあったのか、許すわけにもいかず、久助は最後は斬刑に処されました。

しかし、久助のおかげで新発田藩は存続することができたのです。

現代では、自らが犯していないことを、上司やお家のために命をかけて「自分がやった」と最後までいいはることは、逆にヒーローではなく、「なんだこいつ、自己主張ができないのか」と見下されてしまうと思います。

しかし、当時は、藩を存続させること、そのために藩主、藩を守るために命をかけることこそが武士という時代。特に久助にとっては、幼いころに父を亡くした後に、藩主溝口家からどれだけの後押しをいただいたかという恩義がずっと体にしみついていたのでしょう。いつか新発田藩のために命をささげたい、という想いはずっと持っていたと思います。

そして、別な側面からみると、久助が幼かった当時の藩主溝口秀勝の行動が、後々、溝口家を救うことにもつながっていくのです。

ふと、これは、現代の組織リーダーにとっても大切にすべきことにつながるのではないかと思ったりします。

部下やメンバーを、信頼して長い目でみていくこと。その姿勢は、メンバーに伝わり、引き継がれていき、今よく聞かれる持続可能な組織を築くひとつの土台にもなるのではないでしょうか。

また、人から受けた恩は、常日頃必ずあります。その恩を忘れず、感謝していくことはとても大切である。と改めて思った次第です。

出身県の偉人を知る

新潟県出身者ですが、命をかけて藩を守った藩士が新発田にいたことを知らなかったことにショックでした。

すぐにネットで検索したら、ちゃんとウィキペディアにもでているではないですか。

当たり前だけど、歴史は有名人だけがつくっているのではない。歴史の流れには、大なり小なり、その土地を支えてきた人がたくさんいて、もっと多くの人に知っていただきたい人物がいる。そのような偉人にも出会えることが、その土地に足を運ぶ良さでもあるし、城下まちすととしても、心ゆさぶられる瞬間であります~。

井上久助を知っただけでも、新発田市に行ってよかったと思うくらい、出会いに感謝、教えてくださったガイドの藤間さんにも感謝です。